沢山の大切なものをこぼさないように
だけど大切の仕方と感覚は人それぞれで
肌身離さず、朝から晩までがすべての大切とは限らない
というか、それぞれにこうあってほしい仕方がある
けれどそれがあまりに違う時人は自分の感情をころして
温かさを募らせるはずの相手との間に冷たい壁ばかりができてしまうかもしれない
感覚は違って当たり前だから
わからなくて当たり前だから
わかってほしい事ならば馬鹿らしくても言葉をつくして説明するように。
自分ばかりが苦しいのは間違っていると思う、あなたはあなたで美しい人間だから
苦しむ理由はどこにもなくて
その美しさは、誇るべきもので、他の誰かが評価して決まるものではなくて、
あなたがあなたでいることでそこにある美しさだから。
それを壊してしまう前に声を出して
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中島隆博
中国思想、儒教や朱子学ふくめ、…に興味があるならすごくおもしろいというか
すごい労作だと思う
そして、中国って歴史が長くて面白いけれど
現代っ子には、日本では、アメリカとかヨーロッパのほうがどうしても人気のイメージで
ヨーロッパが1つの「普遍」をつくろうとしたこと、それは、
ヨーロッパ中心主義でなくても、ある程度は本当だとわたしは思うし、
それはそれですごいことだと思っていて
で、それに対してわたしたち日本人はどう応えるのかと言ったときに、
自分たちの、日本の文化や歴史に目を向けるのはもちろん、
ヨーロッパの歴史を知ることもだし、
それからもうひとつ、中国と日本が過去にはすごく深く結びついていた部分があったことを
よく解きほぐすべきである
と思う
結びついていた、というか何というんだろうな、うーん、
ほら脱亜入欧とかって話題にもなったけどつまり、日本というのはやっぱり西方ではなく東方なわけで
現代の、あるいはヨーロッパ&アメリカ中心主義になっていったことの問題を考えるとき
(といってもヨーロッパそのものもEUの拡大だとかイングランドが抜けるとかでけっきょく、自立した分裂になりつつあるけれど)
中国思想の確固たる水脈をいったんたどっておく必要は絶対にあって
この本は新書ながら非常に内容の厚い、それを実現させてくれている本だと思う
なんでもかんでも、枠をとりはらって、ボーダーレスな平等な世界に、
個人の意見がだれでもちゃんと聞かれるような世界に、
という、アメリカン・ドリーム的思想はひとつ、たしかに正しいしいいことなんだけど
日本人としては違和感も感じる
そこで、この本が紹介している、現代の中国の儒教思想はすごくおもしろいなって思った
ヨーロッパが見いだしたのが「普遍」だとすると、
現代の新儒家は「共に享受する普遍性」を説いているんだって。
日本人としてその感覚は少ししっくりくる
日本人は何でも受け入れがちでおとなしくて、
自分の意見より空気を読んでしまうとか、いろいろ言われるけれど、
その、「受け入れる」「受け止める」「そこに与えられたものを感じる」というような感性が
最優先にあって、そこからの自分だとか主体なんじゃないか、って思う
それは、この前書いたクィア理論の話でクィアな人がアイデンティティの形成を語るときのあり方とすごく似ていて
「主体」「自己」が先にばーん!ってある、
というわけではなくて
まわりにある空気や、傍にいる人間たちが発している波長や
そういうものを受け取りながら、
「享受」しながらでしか自己を形成しない
というあり方がむしろ日本人なんじゃないかと
(まぁ日本人といってもいろいろな人がいるからあれだけど、傾向として)
そういう姿勢は必ずしもマイナスではない
というか
「主体」を前提とする人と、
「主体」の「まわり」から考える人と
どちらもありうるし、その両者の割合が、人によって違うってことかもしれない
けど、「共に享受する普遍性」ってすごいパワーワードだな
普遍性だけど享受するんだよ、ともに。
普遍性って、普遍的に、当たり前に、存在する、模範的なもののようなイメージだけれど。
だれもが平等で、だれもの声の聞かれる社会がたしかにいいものだ、
だが、そういう平等な社会を、秩序を、「普遍性」として形成することをうたう西洋と
そういう「普遍性」を「享受」する意識をうたう東洋と。
この人生は自分のもので、
自分が動かすほかないけれど
動かすとはおこがましいというか
つねに、動かされているまま、でしかない
けれど、それはありがたいことだ
享受。
なんだっけ
なんとなくレヴィナスを思い出したな
自分が世界に開かれている感じ。
クィアな感じもそうだけど。
できれば開いていたい。わたしは。
それがどれだけ苦しくても。
それでもわたしは幸せなほうだ。
自由に泳いでゆく。
声の聞こえるほうへ。
今日も。
*りんご